今月頭、待望のボブ・ディランのライブへ行ってきました。
Zeppダイバーシティでのスタンディングライブは前回確か三年前のZepp東京同様ステージと客との距離がほどよく近く、最近の大型ホールに慣れた身にはなんとも心地よく、立ちっぱなしの労はなんてこと無く感じました。
前回は毎回セットリストをかなりの曲数日々入れ替え、しかも聞き込んだ耳にも何を歌っているのかわからないほど激しくアレンジを変える。
なので前回は何度か行くはめになったのですが、今回は真逆。ほぼ全公演が同じセットリスト。しかも最新作からの曲は原曲にかなり忠実なアレンジ。
そういうところがほんと、ボブ・ディランだなあと思える人は少なくないと思います。どこか不思議なんですよね。
昨今ライブはどれも小型大型に限らずステージ演出は映像やライトなどデジタル技術を凝らし、肝心の生で奏でられる音楽以上に存在感を感じてしまう時もありますが、ことボブ・ディランに関しては全く違い、生身のディランとバンドの音と表情だけがパフォーマンスの全てです。ライトはなんとガス灯を模した幾つかの薄灯のみ。まるで町外れの路上でライブをやっているかのような錯覚に陥ります。
ディランは自身の伝記等で人生や音楽活動に疲れた時、路上の無名ジャズミュージシャンの演奏を聴きにブラリと街頭へ出向き、自らを再整理していたことを述べています。
御年七十歳を過ぎて、思うところあるのか、それとも一番気を許せる情景なのかは定かではありませんが、あまりにもしっくりとくるその空間に声の響きの僕らへの染み渡り具合はなんともいえないものがありました。
ボブ・ディランを僕が初めて生で見たのは今から丁度20年前になります。奈良東大寺の大仏門前での特設ステージにライクーダーやジョニミッチェルとともに立った夏フェスのはしりとも言っていい「あおによし」というコンサートでした。
東京フィルハーモニックオーケストラをバックにアコギ一本で数曲演奏した姿は今でも瞼に焼き付いています。あの時はイントロが東大寺の和尚さんの声明。今回のライブでの薄灯を見たとき東大寺でのイントロの厳かさを思い出しました。
東大寺南大門前の芝生に陣取り夜陰ともに聞くディラン。なんともビールが美味い情景が目に浮かぶかと思います。案の定、大量の荷物、中身は殆どビールを僕らは持って行きました。
しかし、今回の東京Zeppでのライブにはチケットと裸のお金と後ろのポケットに湯浅学の「ボブ・ディランロックの精霊」だけを忍ばせて行きました。
ロック本はあまり読みませんが、この本はライブの時に限らずいつもポケットに忍ばせておきたい本です。
最後に今回のライブで一番の収穫は生「ブルーにこんがらがって」が聴けたことです。